《Bamboo River (竹河)》 Tamakazura's house was quiet by comparison, and sunk in memories. "Remember how people talked when Kobai started visiting her and Prince Hotaru was hardly in his grave. Well, it lasted, as you see, and the talk has come to seem rather beside the point. You never can tell. Which sort of lady do you think we should offer as a model?" Yugiri's son, newly promoted to captain, came calling that evening, on his way home from the banquet. He knew that the Reizei daughter was at home and he was on unusually good behavior. "It may be said that I am beginning to matter just a little, perhaps."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
自筆「源氏物語」の「竹河(たけかわ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。仙石廬元坊編『桃の首途』(全3巻揃)享保13年橘屋治兵衛 各務支考門人で美濃派俳人の俳諧紀行 俳句 俳書 江戸時代和本 加賀千代女ら。
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。●郷土資料●『京都名勝記』全3冊揃 彩色木版挿絵19図 折り込み地図2枚 明治36年刊 京都市参事会●古書 和本。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。明治期 『萬國地理訓蒙』写本/万国地理蒙 西村恒方 コロネル 古書 古文書 和本。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。米庵墨談・正続・6冊/市川米庵・中国宋の米?の書を学び米庵と号した・門弟に貴人が多く・その書風は大流行した・幕末の三筆の一人/和装本。現在の今上天皇と系譜がつながっている。福島県人物事典★「会津女性人物事典」平成4年 著 小島一男 モノクロ写真 松平小君略伝 歴史春秋社。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。三浦梅園著 柴田花守増訂『闢邪必読 五月雨抄 上』(巻1+巻2 元合本全1冊)明治5年四姓堂合梓 明治時代和本。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。即決 1815(文化12)年『南都暦』南都陰陽師、寛政暦、大和暦、奈良県アンティーク、天文暦学書、卜占、地方暦、江戸期和本。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。独立機関銃隊いまだ猛射中なり/坂口一郎/菊池寛序・これは世人に讀まれていいものだと思ったので極力出版についてのお世話をしたわけである。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。o21020155〇明治時事評論誌「扶桑新誌」明治14年3月第155○ロシア皇帝の凶報、アレクサンドル2世暗殺○琉球処分清朝の望み○榎本海軍卿辞表。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。絵図 (城郭図) 京都府 山城国 淀城 A (レターパックライト発送)。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。『朝忠中納言集』 和書 古書。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。即決 1867(慶應3)年『南都暦』南都陰陽師、天保壬寅元暦、大和暦、奈良県アンティーク、天文暦学書、卜占、地方暦、江戸期和本。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。f21040201〇年貢皆済目録 千葉県 米倉村 延享2年(1745年)から幕末迄 約120枚 宝暦11年 天明2年大飢饉含む 虫損 破れ有〇和本 古書 古文書。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。支那事変と列国の論調・第一集/姫野徳一/昭和12年/支那事変に対する日本側の措置・支那事変と支那・事変と支那事各地事情・支那事変と列国。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。佩文齋詠物詩選 二編 漢書。また、各巻ごとの書かれた年については不明。N21012137〇明治新聞 解譯新聞誌 明治8年6月125号〇公文 官林伐採後の植林取調 〇海内 雷電震右衛門を屯所に連行 新潟県小千谷町縮帷子盛況。従って、応永五年とは、書き始めの年である。好古類纂及其拾遺・風俗部類/浮世絵の沿革・女装沿革・時行修養容/古版大名行列図・徳川家紅葉山御宮社参次第・菱川師宣・鳥居清長/和装本。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。萬葉集・巻第一・第二・第七・3冊/塙保己一先生遺業継承温故学会蔵版/復刻版/塙保己一が書写させその子・忠宝が弘化年間に開版したもの。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。江戸模様雛形本。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。※状態が非常に悪い 天攵板論語 2冊 南宗論語考異1冊 計3冊セット 【a-851】。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。即決 1839(天保10)年『南都暦 寛政暦 』アンティーク、天文暦学書、江戸期和本 八卦、卜占、陰陽師 、二十八宿、七十二候、日蝕。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。☆E0078和本江戸期赤穂浪士忠臣蔵「義士伝」上中下3冊揃/古書古文書/手書き。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。茶経評釈・2分冊/諸岡存/昭和16年・限定500部・非売品/理解しがたい古典茶経を出来る丈け現代的に合理的に解釈及批評するのが趣旨/和装本。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。松のほまれ・松の誉/明治37年/田中光顯・岩倉具視題字/勤王女傑贈正五位・松尾多勢子・幕末尊王攘夷の運動家で岩倉具視の信任をも得ていた。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。N21020102〇秋田県布達 明治8年〇台湾蕃地処分の際蕃地又は長崎で死亡の夫卒 同県小島郷梅ヶ崎(現長崎市)に埋葬者15名の本貫地等調査を要請。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。支那事変・続皇軍武勇伝・附銃後美談/北支戦線画報/昭和12年。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。ケン(金偏に今)録。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。大坂町鑑。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。華夷通商考。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。大将の君(夕霧)、女三の宮(前朱雀天皇の皇女)と紫の上を比較する・大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」(英訳文・中国語訳付)茶道・茶道具97B。
出品した「源氏物語」は竹河(たけかわ)の内容の要旨
「竹河」(たけかわ)の巻は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。大正3年発行 赤裸々の獨逸皇帝 成功雑誌社 興味多き性格/意外の運命/老相罷免の計略/皇帝と人物の任用 etc。薫の君、14歳から23歳までの恋物語。六根清浄大祓図会。薫の君15歳の正月下旬、髭黒大政大臣の正室であった玉鬘(たまかずら)の姫君の邸に薫の君や蔵人少将(夕霧の子息)が集い催馬楽の「竹河」を謡い興じていた。非常時・国防写真大観/陸軍大臣林銑十郎・海軍々令部次長加藤隆義題字/昭和9年/海軍大演習・満州国の威容・新兵器献納式・新興帝国の輝き。その席で玉鬘(たまかずら)の姫君は薫の君が弾く和琴の音色がなき弟の柏木の音色に似ていることに気づく。佐喜草。3月の桜の花盛りの夕暮れ時、玉鬘(たまかずら)の二人の姫君が御簾をあげ、桜の木を賭け碁を打っていた。防御・攻撃・遭遇戦・昭和3年/戦術研究上の著眼及原則問題の答解要領・戦闘之部・前編と陣中要務之部・某参謀編・昭和11年/戦時資料・3冊。蔵人少将(夕霧の子息)はその姿を見て二人の姫君のうち姉の大君への思いを募らせていく。昭和22年発行 國際決濟銀行第十五回年次報告(1944~45) 第二次大戰と世界經濟 東京銀行調査部訳 時事通信社 経済/BIS。薫の君、蔵人少将と玉鬘(たまかずら)の二人の姫君のきらびやかな恋物語が描かれている
原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)玉鬘には美しい二人の姫君(大君・中の君)がいる。訓蒙窮理問答。(八の宮の姫君とは別)二人の姫君には冷泉院(前冷泉天皇)、今上天皇、そして蔵人少将(夕霧の子息)というきらびやかな求婚者がいる。昭和26年発行 風流あじろ笠 行雲流水の巻 村上元三 文藝圖書出版社。しかし、髭黒大政大臣という夫のなきあと、玉鬘は朱雀天皇の皇后で明石中宮の権力に圧倒されていた。風月往来。明石中宮という圧倒的な権力者の前に自分の立場が風前の灯であることを悟る。西南征討史略・青木輔清・3冊/当時国家の形勢賊の叛する内情を穿ちたる名論等亦少からず此役の顛末を貫了せんとする者此書の外にあるなし。紫式部が「竹河」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。観世音持験記。詳細な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。尊攘堂遺墨集・尊攘堂誌/昭和3年/非売品/和装本/吉田松陰・佐久間象山・高杉晋作・山縣有朋・坂本龍馬・木戸孝允等維新の志士の書/82点。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》
「竹河」の巻は英文で「The Eastern Cottage」と表記されます。春の寝覚夢物語。
《自筆上部の原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)漢詩文の落款が押捺されている。明治29年発行 名人逸話 風流翁。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。絵図 (城郭図) 熊本県 肥後國 求麻城(レターパックライト発送)。》
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。平野霞裳 井上楊南 作品図録 陶器 ひらのかしょう 常滑。)
「自筆原本」
自筆右下の上の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。救荒事宜。
自筆右下の下の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印《自筆上部の原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)という漢詩文の
落款が押捺されている。ニューギニア事情・豪州委任統治領・南洋庁調査課資料第四集・昭和14年/ニューギニア事情・パプア領編・南洋庁調査課資料第二集/2冊。漢詩文の落款が押捺されている。古書 四庫全書伝記資料索引 上下2冊。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。経文 釈厳如 和本-写本 釈勝如。》
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。瞬間催眠術教授書/山本鶴導/大正3年/然共催眠術は吾人生存上寸時欠くべからず即ち應用の廣汎にして万能なる到底言語に絶するの外なし。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。歌林雑木抄。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。推験鈔。
《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》
《さきをふ》・・・こゑこゑ(声々)も、むかし(昔)のこと(事)思ひ出てられて、
此との(殿)には、物あはれになかめたま(給)ふ。東嶺和尚心経註/心経不不註/臨済僧東嶺円慈による般若心経の注釈書/漢文体・師の闡提翁(白隠慧鶴)の命による著作/鵠林門下二神足/嘉永7年。
「こ宮うせ給ひてほと(程)もなく、このおとゝのかよ(通)ひ
給ひしこと(事)を、いとあはつけいやうに、世人はもとく
なりしかと、思ひもき(消)えすかくて物し給ふも、さすかさる
かたにめやすかりけり。昭和3発行 史料編纂掛一覽 東京帝國大學 文學部 史料編纂掛 職員/編纂發行圖書/大日本史料/大日本古文書 etc。さた(定)めなの世や、
いつれにかよ(寄)るへき」なとのたま(宣)ふ。和本 書道『暢寄帖 三十六峰外史墨蹟』3冊揃 明治2年 頼山陽/著 思想家/漢詩人/文人 (江戸 古文書。
左の大殿の宰相の中将、大きやう(饗)のまたの日、
ゆふ(夕)つけてこゝにまい(参)り給へり。信濃偉人遺芳帖/大正7年/天金本/真田幸村等約50名の書収録/書M。みやす(御息)所
さと(里)におはすと思ふに、いとゝ心けさうそ(添)ひて、
「おほやけのかすまへ給ふよろこ(喜)ひなとは、
なに(何)ともおほえ侍らす。和刻本正史・北史・南史・縮刷版6冊/南京の國子監で校刊されたいわゆる南監本に句読を加えて弘化四年松江藩で復刻したもの/定価合計21200円。わたくしの思ふ事かなはぬ
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。目安裏書初判之事…。
《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》
《太政大臣の正室・玉鬘の姫君(大君・中の君)への冷泉院(前冷泉天皇)と今上天皇の求愛物語・自筆「源氏物語」「竹河」の原文》
《大君・冷泉院(前冷泉天皇)の許に輿入れ》
《冷泉院(前冷泉天皇)と今上天皇主催の管弦の宴》
《冷泉院(前冷泉天皇)と大君の間に女宮が誕生、中の君尚侍となる》
《夕霧ら左大臣、薫の君は中納言に昇進》
《源中納言(薫の君)がますます申し分なく立派に成人して何一つ誰に
劣るところもなくいらっしゃるのを、大臣(夕霧)も北の方(夕霧の正室・雲井雁)も
婿にと目をおつけになるのであった。鉄道旅行案内/鉄道省/貝原益軒/本書は道沿線の名勝史その他行楽地の概略誌普通一般の旅行者の参考となるべき事項を記述したものである。
隣の邸(紅梅右大臣邸)は、こうして大変なにぎやかさで、
行き違う車の音や前駆追う》・・・・・声々にも、つい昔のことが思い出されて、
このお邸では、しみじみと寂しく物思いに沈んでいらっしゃる。支那開国始末/露国東洋語学博士・貝斯徳尼・ボスドネフ著/岡本武雄序・加藤稚雄・木下賢良合訳/陸軍少将・奥保鞏題字/明治22年。
前尚侍の君(玉鬘)は、
(玉鬘)「故宮(蛍兵部卿)がおなくなりになってから間もなく、
この大臣(紅梅右大臣)がお通いになったことを、ほんとに浮ついたことのように
世間の人は悪く言ったそうですが、そのお気持も変らずに、今こうして暮して
いらっしゃるのも、それはそれとしてさすがに好ましいことだったのです。小学形體線度略解。
分らないのは男女の仲というもの。1894年発行 日本歴史書譜 明治時代 挿絵付き本 / 鳥羽絵 漫画。何を目安にすればよいのやら」
などとおっしゃる。二十四章孝行録。
左大臣殿(夕霧)のご子息の
宰相中将(宰相中将・夕霧の子息)は、
大饗の翌日、夕刻になってこのお邸(玉鬘邸)にまいられた。三泉百絶。
御息所(玉鬘の姫君・大君)冷泉院の妻)が退っていらっしゃると思うと、
ひとしおお心がときめいて、
(宰相中将・夕霧の子息)「朝廷から一人前としてお認めいただいた祝い事などは、
何ほどのこととも思われないのでございます。新版万日記盡。
私の思いのかなわなかった・・・・・《嘆きばかりは、年月がたつにつれて
晴らしようもないことでして」
と、涙をおしぬぐうのもわざとらしく見える。纂集御系図・旧典類纂・皇位継承篇/有栖川宮殿下総裁/黒岩周六論文・犬養毅演説/憲法並に皇室典範制定の基礎底本にして不朽の典籍/昭和7年。》
備考・玉鬘の二人の姫君のうち大君(姉君)は冷泉院(前冷泉天皇)の妻となり、中の君(妹君)は今上天皇の妻となる。瓦礫雑考。今上天皇の正室(皇后)は明石中宮で匂宮の母君。安政五年三月下旬流行。桐壺天皇の皇子で朱雀天皇の皇太子・八の宮の姫君(大君・中の君)とは別人。昭和19年三版発行 海表叢書 別巻異国情趣集 新村出監修 平樂寺発行 俳諧/和歌 etc。八の宮の姫君・中の君はのちに、今上天皇の皇子・匂宮の妻となる。大正15年 小林一茶 一茶翁百年祭記念集 非売品。
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。色葉字類抄・巻上/非売品/大正15年/後世に多大な影響を与えた平安知識層のために編まれた最古のいろは引き国語辞書/和装本/黒川真道蔵書。
《Bamboo River (竹河)》
Tamakazura's house was quiet by comparison, and sunk in memories.
"Remember how people talked when Kobai started visiting
her and Prince Hotaru was hardly in his grave.
Well, it lasted, as you see, and the talk has come to seem
rather beside the point. You never can tell. Which sort
of lady do you think we should offer as a model?"
Yugiri's son, newly promoted to captain, came calling that evening,
on his way home from the banquet.
He knew that the Reizei daughter was at home and he
was on unusually good behavior.
"It may be said that I am beginning to matter just a little, perhaps."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《柯根(竹河)》
玉鬘夫人的邸宅就在近,玉鬘夫人听梅右大臣家盈,仆从如云,
路喝道之声不于耳,便想起昔年髭黑大臣在日盛况,不落寞之感。菩提心論鈔。
:“兵部卿王逝世不久,梅大臣就和真木柱私通,世人都非他,
指分率。うすひき歌信抄。知后来情一直不衰,一夫妻倒也像模像。浦農志保貝。
世事真不可知!叫我怎?”
夕左大臣家的宰相中将于大宴次日傍来玉鬘夫人邸内拜。地方凡例録。
他知道大女公子在家,恋慕之心更切,夫人道:“猥蒙朝廷不弃,
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
注記・中国語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。維新日誌・20冊/和装本/徳富蘇峰推薦・題字/非売品/限定/昭和7年。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。明治百二十家絶句・6冊/土佐・谷喬撰/和装本/明治年間ノ諸先生百有余家ノ詩ヲ輯録セシ書ニテ真ニ騒客須史モ吟辺ヲ関ク可ラサル珍書ナリ。
左の写真が「源氏物語」竹河の巻の末尾(原本番号41-B)の押印。普法戦紀・ふほうせんき・7冊/王韜撰・張宗良芝/陸軍文庫/明治11年/清末のジャーナリスト・普仏戦争の記録で日本人にも広く読まれた/和装本。
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。尊経閣蔵三巻本・色葉字類抄/平安時代の古辞書/橘忠兼/朱刷り入。冬姫は内大臣・通誠の養女。四十八願得聞鈔。
冬姫は通称。法然上人絵大鑑・103図版・彩色木版3枚/昭和7年/井川定慶・望月信成編。正式な名は伊達貞子。家内用心集。左端の写真は「竹河の巻」末尾の拡大写真。教訓宝入船。
上の篆書体は、「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)の押印。成功百話 大月隆 東京滑稽社 明治45年(1912年) 重版。
篆書体の左の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
写真右上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。清水霊験記。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。近世筑前史料 異変口上書 附御称誉写。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(竹河の巻)MRI 44―40B
自筆二つの印のうち上は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款。善光寺境内図。
「源氏物語・国宝」「竹河の巻」主人公の資料
下記写真は、「国宝・竹河・源氏物語絵巻」の中に描かれる玉鬘の姫君(大君・中の君)
「源氏物語絵巻 」竹河(国宝)玉鬘の姫君(大君・中の君)の侍女
右下は、玉鬘の姫君(大君・中の君)と御簾の外からかいま見る夕霧の子息・蔵人少将。昭和9年発行 國體と基督教との融合 岸田軒造 向山堂書房 日本國體と日本精神 etc 宗教。
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。明治22年発行 固本策 上 渡邊重石丸 道生館 歴史。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行
源氏物語「竹河」原本に記されております。敬仏感応鈔。紫式部が「竹河」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「竹河の巻」を書いていることがわかります。小学雕題上下・2冊/小学に対する中井履軒の注解書/河野春○批評・市村元貞訓点/明治15年/小学句読を使用し欄外に自分の説を書き入れたもの。この原詩の言葉の引用は、「竹河の巻」に用いられていることで広く知られている。愚迷発心集和談抄。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。和本 御書 親鸞 等著 光陽館 1886年7月 傷み・シミ多 一部折れ有。
「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)という漢詩文の落款が押捺されている。後隊図式・後隊座備之業・後隊一手弯月之業・後隊二隊救應之業・4冊/江戸期和本。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。浄土真宗 法話録 写し 全1冊 江戸時代後期/筆 墨筆 写本 経本 仏書 法帖 (親鸞 法然 手鏡 古筆 古文書。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。◎即◆宇和島藩庁 伊達家史料9 記録書抜・伊達家御歴代事記 三。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。満洲戦線ペン画/太田天橋/昭和8年/満洲事変勃発以来約一ヶ年に亘り満洲に渡って危険を冒して描きたる真に魂の籠った命懸けの作品/武藤元帥。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。歌林良材集。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。新板長田状。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。*珍品旧蔵*唐代 佛經冊頁《武則天沐手敬書》共42頁 絹本 經書 稀少珍品 古美術品 LRF0228。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。*珍品旧蔵*清時代 佛經二十四《虚空藏菩薩經》約十米全長 材質:宣紙 稀少珍品 古美術品 LRF0228。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。春濤詩鈔・乾坤2冊/森春濤/明治14年漢学を鷲津益斎に詩を梁川星巌に学ぶ/巌谷一六・日下部鳴鶴らと親しみ明治詩壇の大家となる/古近体詩。撮影後、展示のために再表装をしております。徳本行者勧誡聞書。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。和本 御文 : 大正新刻 : 當用讀法修正 立花慧明編輯 法蔵館 1915年4月 表紙少し汚れ有。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。?古帖/明治44年/出品図書の中より四十種四十七葉を写真版に附して茲に本帖を編し此展覧会を永久に記念せんと欲す/臨済録・日本書紀神代巻。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。西伯利亜派遣軍記念写真帖/シベリア派遣軍記念写真帖/大正9年/48図版/大日本帝国陸軍・浦塩派遣軍・シベリア出兵/陸軍大将大井菊太郎。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。新学異見辨。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。名古屋東陽館図。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。[黨内資料・非賣品] 初級黨員教育の方針 日本共産黨北陸地方委員會教育宣傳部。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。※古書益荒男の道 大瀧由次郎編発行 序文山口県玖珂郡柳井町長國森重衞・跋文靖国神社主典原通雄・題字陸軍大将井上幾太郎・表紙永井幾麻。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。手束杖。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。扶桑隠逸伝。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。信濃の祭/昭和22年/須山計一/柳田国男・どうか成るたけ弘く此一巻の書が遠近各地の愛国者の手に頒たれんことを心から私は祈念して止まない。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。現今英名百首。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。公事ゆう(口偏に秀)要集。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。名古屋金城及名所図。母は後水尾天皇皇女女二宮。菅家世系録・上中下3冊/玉田永教・江戸後期の神道講釈師/菅原道真の家系・伝記を挿絵入りで解説/その影響は吉田松陰にも及ぶといわれる。実母は近衛家女房(瑤林院)。浄土和讃私記・高僧和讃私記・正像末讃私記。幼名は多治丸。少年日露戦史・12冊/明治37年/今の少年の爲めにも今から後の少年の爲めにも帝国空前の大事業を永く記憶させる爲めに日露の戦争を書いた本。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。絵図 (城郭図) 福井県 越前國 福井城(レターパックライト発送)。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。明治新撰泉譜。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。於夏蘓甦物語。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。昭和14年発行 陣中劇 直ぐ問にあふ 陣中慰問 服部静雄 新興文藝社。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。肥後金工録/幕末の土佐藩士・陸軍大佐/長屋重名・鉄網海客/肥後金工研究の端緒を開いたばかりでなく今なお研究の指針として必読の書/和装本。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。用射録目録・2冊/弓術・弓道和本/山本平八/天保五年/右二巻当流之秘書多年依御犱心免伝写/新弓張様之事・弓張出しの事・長矢束用捨之事。
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