《The Cypress Pillar(真木柱)》 "I count not myself among the finer branches, Yet hope that the fragrance may float upon the breeze." He looked back time after time as he finally made his exit. Higekuro had meant all along to take her with him but had kept his plans secret, lest Genji oppose them. "I seem to be coming down with a cold," he said to the emperor, as if no further explanation were necessary. "I think I should take care of myself, and would not want to have her away from me."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
自筆「源氏物語」の「真木柱(まきばしら)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。三浦梅園著 柴田花守増訂『闢邪必読 五月雨抄 上』(巻1+巻2 元合本全1冊)明治5年四姓堂合梓 明治時代和本。
原文は「源氏物語・真木柱の巻」として美しく描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。即決 1815(文化12)年『南都暦』南都陰陽師、寛政暦、大和暦、奈良県アンティーク、天文暦学書、卜占、地方暦、江戸期和本。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。独立機関銃隊いまだ猛射中なり/坂口一郎/菊池寛序・これは世人に讀まれていいものだと思ったので極力出版についてのお世話をしたわけである。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。o21020155〇明治時事評論誌「扶桑新誌」明治14年3月第155○ロシア皇帝の凶報、アレクサンドル2世暗殺○琉球処分清朝の望み○榎本海軍卿辞表。現在の今上天皇と系譜がつながっている。絵図 (城郭図) 京都府 山城国 淀城 A (レターパックライト発送)。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。『朝忠中納言集』 和書 古書。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。即決 1867(慶應3)年『南都暦』南都陰陽師、天保壬寅元暦、大和暦、奈良県アンティーク、天文暦学書、卜占、地方暦、江戸期和本。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。f21040201〇年貢皆済目録 千葉県 米倉村 延享2年(1745年)から幕末迄 約120枚 宝暦11年 天明2年大飢饉含む 虫損 破れ有〇和本 古書 古文書。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。支那事変と列国の論調・第一集/姫野徳一/昭和12年/支那事変に対する日本側の措置・支那事変と支那・事変と支那事各地事情・支那事変と列国。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。佩文齋詠物詩選 二編 漢書。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。N21012137〇明治新聞 解譯新聞誌 明治8年6月125号〇公文 官林伐採後の植林取調 〇海内 雷電震右衛門を屯所に連行 新潟県小千谷町縮帷子盛況。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。好古類纂及其拾遺・風俗部類/浮世絵の沿革・女装沿革・時行修養容/古版大名行列図・徳川家紅葉山御宮社参次第・菱川師宣・鳥居清長/和装本。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。萬葉集・巻第一・第二・第七・3冊/塙保己一先生遺業継承温故学会蔵版/復刻版/塙保己一が書写させその子・忠宝が弘化年間に開版したもの。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。江戸模様雛形本。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。※状態が非常に悪い 天攵板論語 2冊 南宗論語考異1冊 計3冊セット 【a-851】。また、各巻ごとの書かれた年については不明。即決 1839(天保10)年『南都暦 寛政暦 』アンティーク、天文暦学書、江戸期和本 八卦、卜占、陰陽師 、二十八宿、七十二候、日蝕。従って、応永五年とは、書き始めの年である。☆E0078和本江戸期赤穂浪士忠臣蔵「義士伝」上中下3冊揃/古書古文書/手書き。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。茶経評釈・2分冊/諸岡存/昭和16年・限定500部・非売品/理解しがたい古典茶経を出来る丈け現代的に合理的に解釈及批評するのが趣旨/和装本。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。松のほまれ・松の誉/明治37年/田中光顯・岩倉具視題字/勤王女傑贈正五位・松尾多勢子・幕末尊王攘夷の運動家で岩倉具視の信任をも得ていた。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。N21020102〇秋田県布達 明治8年〇台湾蕃地処分の際蕃地又は長崎で死亡の夫卒 同県小島郷梅ヶ崎(現長崎市)に埋葬者15名の本貫地等調査を要請。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。支那事変・続皇軍武勇伝・附銃後美談/北支戦線画報/昭和12年。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。ケン(金偏に今)録。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。大坂町鑑。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。華夷通商考。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。大将の君(夕霧)、女三の宮(前朱雀天皇の皇女)と紫の上を比較する・大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」(英訳文・中国語訳付)茶道・茶道具97B。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。大正3年発行 赤裸々の獨逸皇帝 成功雑誌社 興味多き性格/意外の運命/老相罷免の計略/皇帝と人物の任用 etc。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。六根清浄大祓図会。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。非常時・国防写真大観/陸軍大臣林銑十郎・海軍々令部次長加藤隆義題字/昭和9年/海軍大演習・満州国の威容・新兵器献納式・新興帝国の輝き。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。佐喜草。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。防御・攻撃・遭遇戦・昭和3年/戦術研究上の著眼及原則問題の答解要領・戦闘之部・前編と陣中要務之部・某参謀編・昭和11年/戦時資料・3冊。
出品した「源氏物語」は真木柱(まきばしら)の内容の要旨
「真木柱の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。昭和22年発行 國際決濟銀行第十五回年次報告(1944~45) 第二次大戰と世界經濟 東京銀行調査部訳 時事通信社 経済/BIS。第31帖。訓蒙窮理問答。尚侍(ないしのかみ)として宮廷に出仕を控えていた玉鬘の姫君だったが、その直前に髭黒大将が女房の手引きで強引に結婚することになった。昭和26年発行 風流あじろ笠 行雲流水の巻 村上元三 文藝圖書出版社。髭黒大将はその後玉鬘の姫君を迎えるために邸の改築に取り掛かる。風月往来。だが、その様子を見た北の方(髭黒大将の正室)は絶望し香炉の灰を髭黒大将に浴びせる。西南征討史略・青木輔清・3冊/当時国家の形勢賊の叛する内情を穿ちたる名論等亦少からず此役の顛末を貫了せんとする者此書の外にあるなし。この事件で完全に北の方に愛想を尽かした髭黒大将は玉鬘の姫君に入り浸り、とうとう業を煮やした北の方の父・式部卿宮は、髭黒大将の留守の間に北の方と子供たちを迎えにやる。観世音持験記。明けて新年、相変わらず塞ぎこんでいる玉鬘の姫君に髭黒大将もようやく出仕を許す気になり、玉鬘の姫君は華々しく参内する。尊攘堂遺墨集・尊攘堂誌/昭和3年/非売品/和装本/吉田松陰・佐久間象山・高杉晋作・山縣有朋・坂本龍馬・木戸孝允等維新の志士の書/82点。早速訪れた冷泉帝は噂以上の玉鬘の姫君の美しさに魅了されて熱心に想いを訴え、それに慌てた髭黒大将は退出をせきたててそのまま玉鬘の姫君を自邸へ連れ帰ってしまった。春の寝覚夢物語。
自筆右下四つの印のうち下2つは、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印、上2つは、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。明治29年発行 名人逸話 風流翁。
原本自筆上部には、「年光東流水」(年光東流の水)漢文の篆書印が押捺されている。絵図 (城郭図) 熊本県 肥後國 求麻城(レターパックライト発送)。白楽天の有名な漢詩です。平野霞裳 井上楊南 作品図録 陶器 ひらのかしょう 常滑。言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。救荒事宜。「源氏物語」真木柱の巻の原文中には、「おほつかなき月日も重なりぬるを」とあります。ニューギニア事情・豪州委任統治領・南洋庁調査課資料第四集・昭和14年/ニューギニア事情・パプア領編・南洋庁調査課資料第二集/2冊。源氏の君が恋する玉鬘の姫君への懐かし想いを記したものです。古書 四庫全書伝記資料索引 上下2冊。現代語訳では、「お逢いしないうちに月日も重なってしまいました」というものです。経文 釈厳如 和本-写本 釈勝如。紫式部が「真木柱」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。瞬間催眠術教授書/山本鶴導/大正3年/然共催眠術は吾人生存上寸時欠くべからず即ち應用の廣汎にして万能なる到底言語に絶するの外なし。詳細な理由は下記説明欄に記載。歌林雑木抄。
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。和本 書道『暢寄帖 三十六峰外史墨蹟』3冊揃 明治2年 頼山陽/著 思想家/漢詩人/文人 (江戸 古文書。
「自筆原本」
自筆右下の2つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。信濃偉人遺芳帖/大正7年/天金本/真田幸村等約50名の書収録/書M。
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。鉄道旅行案内/鉄道省/貝原益軒/本書は道沿線の名勝史その他行楽地の概略誌普通一般の旅行者の参考となるべき事項を記述したものである。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。支那開国始末/露国東洋語学博士・貝斯徳尼・ボスドネフ著/岡本武雄序・加藤稚雄・木下賢良合訳/陸軍少将・奥保鞏題字/明治22年。
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
「か(香)はかりは風にもつてよ花のえ(枝)にた(立)ちなら(並)ふへき
にほ(匂)ひなくとも」さすかにかけはな(離)れぬけはひ(気配)を、
あはれとおほ(思)しつゝ、かへ(返)りみ(見)かちにて
わた(渡)らせ給ぬ。小学形體線度略解。やかて今宵かの殿にとおほ(思)しまう(設)け
たるを、かねてはゆる(許)されあるましきにより、
も(漏)らしき(聞)こえ給はて、「にはか(俄)に風のなやましきを、
こゝろ(心)やす(安)き所にうちやす(休)み侍らんほと(程)、
よそよそ(他々)にてはいとおほつかなく侍らんを」と、
おいらかに申ない給て、やかてわた(渡)し奉り給ふ。1894年発行 日本歴史書譜 明治時代 挿絵付き本 / 鳥羽絵 漫画。
ちゝ(父)おとゝ(大臣)、にはかなるを、きしき(儀式)なきやうに
やとおほ(思)せと、あなかちにさはかりの
こと(事)を・・・・・《いゝさまたけん》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。二十四章孝行録。
《「源氏物語」真木柱(まきばしら)の巻》
《大雪の日・玉鬘の君の邸に行こうとする大将の装束に香をたく北の方(正室)》
《髭黒大将の北の方、大将に背後から香炉の灰をふりかける有名な場面》
《冷泉天皇、玉鬘の姫君に愛の心情を告白》
《髭黒大将、尚侍の君(玉鬘の姫君)を宮中から退出させ自宅に招き入れる》
《尚侍の君(玉鬘の姫君)は
(玉鬘の姫君)「畏(おそ)れ多くて、自分はどうしたらよいのか
定めなく夢路をさまようような身の上なのに」
とお思いになっている。新版万日記盡。
御輦車(てぐるま)を寄せて、お二方(源氏の君と内大臣)の大臣家
からのお迎えの人たちも、》・・・・
(玉鬘の姫君)「香りだけは風の便りにおことづけくださいまし。纂集御系図・旧典類纂・皇位継承篇/有栖川宮殿下総裁/黒岩周六論文・犬養毅演説/憲法並に皇室典範制定の基礎底本にして不朽の典籍/昭和7年。
ほかの花の枝のような御方々の美しさに立ち並ぶことができるような私ではございませんが」
と、さすがにお相手せぬでもない態度を、帝(冷泉天皇)はしみじみと
いとしくおぼしめされながら、振り返りがちにお帰りあそばした。瓦礫雑考。
大将(髭黒大将)は、尚侍の君(玉鬘の姫君)をこのまま今夜ご自邸にとの
お心づもりであったが、前もってそれを言い出したのではとても
お許しが得られそうもないので、その件は、おくびにもお出し申されず、
(髭黒大将)「にわかにひどい風邪で気分がわるうございますから、
気のおけない自宅で休息しようと存じます。安政五年三月下旬流行。
その間、女君(玉鬘の姫君)と別々では、まことに気がかりでございましょうから」
と、穏やかにこしらえ言をお申しあげになって、大将(髭黒大将)は、
女君(玉鬘の姫君)をそのままさっさとお邸にお引き取りになる。昭和19年三版発行 海表叢書 別巻異国情趣集 新村出監修 平樂寺発行 俳諧/和歌 etc。
女君(玉鬘の姫君)の父内大臣は、突然のことなので、
(内大臣)「こうした略儀ではどうだろうか」
とお気になさるけれども、しいてそれくらいのことに・・・・・《異議をとなえるのも
大将(髭黒大将)が気をわるくするだけのこととお思いになって、
(内大臣)「どうなりと、よろしいように。大正15年 小林一茶 一茶翁百年祭記念集 非売品。もともと私の自由にならないお人なのですから」
とご返事申されるのであった。色葉字類抄・巻上/非売品/大正15年/後世に多大な影響を与えた平安知識層のために編まれた最古のいろは引き国語辞書/和装本/黒川真道蔵書。》
備考・髭黒大将の北の方(大将の正室)は、紫の上の異母姉
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。≪ きもの友禅 カタログ本 11冊セット ≫ E-202。
《The Cypress Pillar(真木柱)》
"I count not myself among the finer branches,
Yet hope that the fragrance may float upon the breeze."
He looked back time after time as he finally made his exit.
Higekuro had meant all along to take her with him
but had kept his plans secret, lest Genji oppose them.
"I seem to be coming down with a cold," he said to the emperor,
as if no further explanation were necessary.
"I think I should take care of myself, and would not want to
have her away from me."
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
《真木柱》
一香可。うすひき歌信抄。”其依依不舍之状,使冷泉帝不怜。浦農志保貝。
他就起身辞去,是屡屡回。地方凡例録。
髭黑大将打算今夜就把玉鬘迎回自家邸内。維新日誌・20冊/和装本/徳富蘇峰推薦・題字/非売品/限定/昭和7年。
但先出,生怕源氏不,所以秘而不宣。明治百二十家絶句・6冊/土佐・谷喬撰/和装本/明治年間ノ諸先生百有余家ノ詩ヲ輯録セシ書ニテ真ニ騒客須史モ吟辺ヲ関ク可ラサル珍書ナリ。
此道:“我忽然患了感冒,身体常不,
因思返敝寓,以便安心休。普法戦紀・ふほうせんき・7冊/王韜撰・張宗良芝/陸軍文庫/明治11年/清末のジャーナリスト・普仏戦争の記録で日本人にも広く読まれた/和装本。若与尚侍分,
不免心挂,故欲相偕同往。尊経閣蔵三巻本・色葉字類抄/平安時代の古辞書/橘忠兼/朱刷り入。”如此婉言托,
立即和玉鬘一同回家去了。四十八願得聞鈔。内大臣以如此太匆忙,
行个式才是。法然上人絵大鑑・103図版・彩色木版3枚/昭和7年/井川定慶・望月信成編。又念此事而行阻,
未免令人不快,便道:“任凭他。家内用心集。
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
左の写真が「源氏物語」真木柱の巻の末尾(原本番号40-B)の押印。教訓宝入船。
写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。成功百話 大月隆 東京滑稽社 明治45年(1912年) 重版。冬姫は内大臣・通誠の養女。清水霊験記。
冬姫は通称。近世筑前史料 異変口上書 附御称誉写。正式な名は伊達貞子。【明治閨秀美譚/鈴木光次郎編】東京堂書房/明治25年初版。
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。東台戦記・下/一名・松廼落葉/高畠藍泉・前田夏繁著/戊辰戦争の戦闘の一つである上野戦争・彰義隊の活躍ぶりを公然と描いた最初の出版物。
表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。鯉魚繁殖法。)
(出品した自筆の「断層画像写真」(真木柱の巻)MRI 31―32A
「源氏物語」真木柱の巻の絵の資料
下記写真は、髭黒大将の北の方(正室)が大将の香炉の灰を浴びせる画面の絵
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。瀧澤清画 潜龍堂画譜 全 人物之部・花鳥之部/2冊 求古堂蔵 vbaa。
「年光東流水」(年光東流の水)漢文の篆書印が押捺されている。歌林良材集。言葉の意味は、「時間の流れは東へと流れる川の水のように止まることなく流れてゆく」です。和本『支那選述 緇門崇行録』全1冊 安政5年 雲棲大師/述 三緑山蔵版 55丁 仏書 禅籍 経本 大本 (中国 唐本 江戸 古文書。白楽天の有名な漢詩です。殉難後草/青雲閣兼文・西村兼文編纂/若い命を日本国の将来のために捧げた七十六名の憂国の志士たちの辞世/永井隆尚・来原蔵盛功・野崎政盛。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。新板長田状。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。*珍品旧蔵*唐代 佛經冊頁《武則天沐手敬書》共42頁 絹本 經書 稀少珍品 古美術品 LRF0228。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。*珍品旧蔵*清時代 佛經二十四《虚空藏菩薩經》約十米全長 材質:宣紙 稀少珍品 古美術品 LRF0228。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。春濤詩鈔・乾坤2冊/森春濤/明治14年漢学を鷲津益斎に詩を梁川星巌に学ぶ/巌谷一六・日下部鳴鶴らと親しみ明治詩壇の大家となる/古近体詩。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。諸礼教訓鏡。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。観音経早読絵抄。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。限定本★書物よもやま話 庄司淺水 昭和61年 限定68/125 山高登 制作木版書票附き(1枚)出版ニュース社。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。性法略。撮影後、展示のために再表装をしております。首斬り浅右衛門刀剣押形〈上.下巻〉福永 酔剣 (著) 激レア本。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。【閑】尚古山房拓印出版『趙子昴徳清聞居』『劉文清公法書』『陸潤庠文碑記』求石斎印行『張文襄公法書』安東宏業號印書局出版古書(計5冊。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。手束杖。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。扶桑隠逸伝。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。信濃の祭/昭和22年/須山計一/柳田国男・どうか成るたけ弘く此一巻の書が遠近各地の愛国者の手に頒たれんことを心から私は祈念して止まない。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。現今英名百首。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。公事ゆう(口偏に秀)要集。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。名古屋金城及名所図。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。菅家世系録・上中下3冊/玉田永教・江戸後期の神道講釈師/菅原道真の家系・伝記を挿絵入りで解説/その影響は吉田松陰にも及ぶといわれる。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。浄土和讃私記・高僧和讃私記・正像末讃私記。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。少年日露戦史・12冊/明治37年/今の少年の爲めにも今から後の少年の爲めにも帝国空前の大事業を永く記憶させる爲めに日露の戦争を書いた本。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。絵図 (城郭図) 福井県 越前國 福井城(レターパックライト発送)。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。明治新撰泉譜。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。於夏蘓甦物語。母は後水尾天皇皇女女二宮。昭和14年発行 陣中劇 直ぐ問にあふ 陣中慰問 服部静雄 新興文藝社。実母は近衛家女房(瑤林院)。肥後金工録/幕末の土佐藩士・陸軍大佐/長屋重名・鉄網海客/肥後金工研究の端緒を開いたばかりでなく今なお研究の指針として必読の書/和装本。幼名は多治丸。勤王護国譜/非売品/昭和18年/一億国民の戦場精神を振起するため岡山城天守閣を会場とし多数観覧者に異常の感銘を與へた/楠木正成・乃木希典。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。掃葉山房 石印 四庫全書簡明目録 民国 孟夏重校。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。用射録目録・2冊/弓術・弓道和本/山本平八/天保五年/右二巻当流之秘書多年依御犱心免伝写/新弓張様之事・弓張出しの事・長矢束用捨之事。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。絵図 (城郭図) 静岡県 遠江國 掛川城(レターパックライト発送)。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。円山四条派画集・2冊/両派の特別展覧会に出陳の名画とその他人口に膾炙せる最も著しき各家の珍襲とを請ふて両派の粋を抜き編集/大正元年。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。いせ大和まわり名所絵図。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。絵図 (城郭図) 大阪府 摂津國 高槻城 (レターパックライト発送)。
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